「あの審判は買収されてる」——疑惑の正体と未来のテクノロジー

判定が荒れた試合のあと、決まって囁かれる言葉がある。「あの審判、買収されてるんじゃないか」。今大会に限らず、サッカーの歴史を通じてこの疑念は繰り返されてきた。


最も有名な例は2002年、日韓W杯の決勝トーナメント1回戦、韓国対イタリアだ。エクアドル人主審バイロン・モレノは、韓国に疑わしいPKを与え、デルピエロへのエルボーを見逃し、トッティに2枚目のイエローで退場を命じ、トマージの決勝点をオフサイドで取り消した。イタリアはこの試合で姿を消し、国内では「汚い大会から追放された」という見出しが新聞に並んだ。FIFAは当時、トッティの退場やオフサイド判定の誤りを認めながらも、組織的な陰謀については否定する立場を取った。それでも陰謀論は今も消えていない。20年以上が経った今もイタリアのファンの間では「買収されていた」という声が根強く残る。


ただ、事実を丁寧に追うと、構図は少し違って見えてくる。モレノが実際に処分を受けたのは、この試合ではなかった。同じ年の後半、彼自身がキト市議会議員選挙に立候補していた最中、地元クラブの試合で本来6分だったロスタイムを13分まで延長し、そのクラブの逆転勝利を演出したことが発覚した。これによりエクアドルサッカー当局から20試合の出場停止処分を受け、その後の不振も重なって2003年に現役を引退している。つまり、世界が「買収」を疑った試合そのものではなく、別の機会の不正によって彼の経歴は終わった。韓国戦における買収について、公的に決定的な証拠が示されたことは、今に至るまでない。


一方で、「審判も人間で、制度があっても破られる」という不信感には、相応の根拠もある。FIFAの倫理規程は贈り物や利益供与を明確に禁止し、違反すれば最低5年の追放と相応の罰金を科す重い規定を設けている。にもかかわらず、2014年には南米の関係者から審判が高価な腕時計を受け取っていた問題が表面化し、翌2015年には米司法当局の捜査でFIFA幹部らが相次いで起訴された。規律は確かに存在する。だが、規律の存在は、それが常に守られることを保証しない。


つまりこの話には、二つの層がある。ひとつは、判定が荒れたときに人が「買収」という最も強い説明に飛びつきたくなる心理そのもの。もうひとつは、その心理が完全な妄想ではなく、サッカー界が実際に繰り返してきた汚職の歴史によって、ある程度裏打ちされているという事実だ。


だからこそ、この問題は厄介だ。疑念を抱く側にも一定の理屈はある。同時に、個々の審判への疑惑は、たいてい証拠を伴わない。歴史が教えてくれるのは、結論ではなく構造だ。判定に不満が募るたび、人は買収を疑う。そして、その疑いの大半は、検証の末に「ただの不可解な判定」として記録される。ごく稀に、本当に不正があったと判明することもある。だが、それを見分ける手立ては、たいてい後になってからしか現れない。


審判は神ではない。だからこそ規律が必要であり、同時に、規律があっても完全な潔白を保証してはくれない。サッカーを見るすべての人が抱えるこの不安は、おそらくこれからも消えることはないだろう。


ただ、その不安が及ぶ範囲は、年々狭まっている。2026年大会は、判定の客観化が最も進んだ大会だ。半自動オフサイド技術は3Dアバターを用いて選手の手足の位置を10センチ単位で捉え、明確なオフサイドが検出された瞬間に主審へ音声で通知する。公式球「トリオンダ」には内部にセンサーが内蔵され、1秒間に500回の頻度でボールへの接触データを送信し、キックの瞬間を正確に特定する。VARの介入範囲も広がり、誤って与えられたカードや人違いまで訂正できるようになった。オフサイドやゴールの有無、ボールが触れた瞬間といった「客観的に測定できる事実」については、人間の裁量が入り込む余地は、かつてないほど小さくなっている。


研究レベルでは、さらに先を行く取り組みもある。ファウルかどうか、どの種類の反則か、カードに相当するかどうかをAIに分類させる試みは、すでに学術研究として進んでいる。ある研究チームが構築したシステムは、人間よりも遥かに速く判定を処理できるところまで来ている。それでも、同じ研究は興味深い事実も明らかにしている。トップレベルの審判同士に同一の事象を見せたところ、全員が同じ判定で一致したのはわずか16%のケースに留まったという。残りの大多数では、判定が分かれた。ファウルの「重さ」や「意図」は、そもそも人間同士でも一致しないほど主観的な領域なのだ。


専門家の見立てもおおむね一致している。オフサイドのように客観的な測定がものを言う領域は技術に委ねるべきだが、ファウルの意図やカードの重さ、試合運びの巧拙といった部分は、当面、人間の審判の領域として残るだろうという見方だ。技術は審判を補助する道具にはなるが、最終的な責任を引き受ける存在ではない。


つまり、この問題の輪郭は今、静かに変わりつつある。かつては「あの判定は正しかったのか」という疑問の答えが出ないまま、疑念だけが時間とともに肥大していった。今は、疑問の半分——位置や接触といった客観的な事実——には、技術が即座に答えを返してくれる。残る半分、ファウルの重さや意図というもう半分の判断は、依然として人間に委ねられている。技術はこれからも進化していくだろう。そして、判定を見る側の人間の意識も、その進化とともにアップデートされていくはずだ。その進化を、これからも見守っていきたい。

Photo by Junko Sato / SportsPressJP